自分が歎異抄を知ったのは知り合いのおばはんがやたら高評価していたのがきっかけで、どういうものかと思い図書館にて手に取ってみたが、とりあえず阿弥陀様に帰依しなさいみたいな事しか書いてなかったので気持ちが萎えてしまいそれっきり読む事はなかった。
ただ、五木寛之やら色んな人が評価しているので、なぜあんなものがこれだけ評価されるのか気になっていたので、わかりやすく解説されているだろうと思い購入したもののあまり読む機会が無かった100分de名著版の歎異抄を読む事にした。
とりあえず、なぜ念仏を唱えることで救われるか疑問でしかなかったが、以前読んだ一言芳談で思ったように、死と近い中世で仏教で極楽往生に必要とされる善行さえできない庶民にとって祈りだけで往生できるというのは、とても魅力ある物語(現代の我々が感じる以上の実感のある)だったのだろう。まぁ親鸞本人は念仏で往生出来るかどうかはわからんと言ってはいるが。ただ、それで地獄に落ちても構わないそんな私でも阿弥陀様は救って下さるはずと言っているのは彼の凄いところだと思う。
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で、本書で色々言われている悪い事をしても救われる(悪人正機説)という話も、念仏さえ一回でも唱えれば万事OKというお気楽なものではなく、一回だろうが一億回だろうが真に阿弥陀様に帰依する念がなければ駄目で、悪い事というのも我々は良い事をしたと思っても結果的に悪い事になる場合も少なかったり、状況によっては悪い事をしてしまうので、そういう事を想定した上での「悪い事をしても救われる」という話だと分かった。
ここで親鸞が言っていた「雑毒の善」(どんなに善行をしたとしてもそれは煩悩が混じった不完全なものである)という概念は正義に狂いやすい我々の戒めになりやすい言葉だと感じた。
この本の最後の章で、なぜ人は宗教というものを信じるのかという事について語られているが、自分の悪い頭で要約すると「人は何か大きな存在から見た物語の中にいると安心する」という事なのだろう。
ある意味、己を客観視できるからよくもわるくもゆったり出来るのではないか。
現代の我々は沢山の物語を選択してひたすら消費しているので、結局落ち着く暇もない。ただ、そういうのが良くも悪くも世の中の変化を活発にさせているのかもしれない。
本書の中に「世間虚仮、唯仏是真」(この世のものは偽物であって、仏の教えのみが真実である)という説明があるが、ニヒリズムが全盛のこの時代では「唯仏是真」が抜けて「世間虚仮」しかないので、凡人は市場から提供されるものをひたすら消費する畜群にならないととてもやりきれませんな。
歎異抄(100分de名著)
浅原才一という念仏者を知ったが、どんな事を考えていたのか気になるので、今度彼の本を読んでみよう。感心するのかお気楽な人だと思うのかはわからんが。
ただ、学者が彼を取材しようとしたら「明日にでも人を殺すかもしれないから、俺を本にしたら恥かくぞ」と言った話は好き。