twitterをやっていたらこんなツイートを見かけた。
正法眼蔵は桁外れの書物と思うが、個人的には一言芳談が好き。荒野を血走った目をした男たちが悟りも何もなく、ただ抜身の剣をぶら下げていつ死んでも良いような覚悟で歩くような世界。
— Sz73 (@Sz73B) 2019年11月22日
えらく物騒な評価をされている仏教書とはいかなるものか興味が湧いたので、早速図書館で借りて読んでみたのですがまぁなんと言いますか、
「ごちゃごちゃ考えるな。妄念が湧いても気持ちが揺らいでも死ぬまで念仏を念じつづければ極楽往生間違いなし。むしろそういう気持ちがないのに念仏を唱える事自体間違っている。」
といった感じでひたすら生を嫌って死後の往生を願う言葉を沢山まとめてありました。
ここまでくるとなんだかハードコアを通りこして何か素朴さのようなものまで感じてしまいますね。
ただ、神仏の権威も無くなった現代を生きる自分からしたら「そんなに生が嫌なら念仏を唱えながら首でも括ったらどうだ。すぐ往生出来るぞ」と思うがそういう問題でもないのか。念仏者に聞いたら「近道してもろくな事がないぞ」と言われるのですかね。念仏者にいっぺん聞いてみたいですね。
あと、最後の文章にあった「世を捨てると言っても、徹底的な人間嫌いになるのも良くない。ちゃんとした理由もなしに人を恐れるのは、また、悪い結果を招くもとになる。
いま世間から遠ざかるというのは、あくまで名声や利益にとらわれないようにするためなのである。
だいたい、普通の修行者は、たった一人ではやりにくいから、あまり名声や利益に心を向けさせない仲間を一人か二人と共同させるのが良かろう。それだって多数になると何かにつけ問題が出てくる」というのが印象に残った。
ただ、ネットフリックスでハイパーハードボイルドグルメリポートを見た時、リベリアの元少女兵だった娼婦が出てきて、そもそも自殺を考える事自体贅沢な事なのかもしれないし、ああいう人達の為に念仏があったのかと思った。
それから、基本的に辛気臭い傾向のある内容ばかりだが、阿波介というハーレムを作りしかもサド趣味を持っていたという陰陽師が出てきた時は少しギョッとした(それでも道心を起こして法然の弟子になったらしい)
しかし、少なくとも自分の目で回りの人間を見た限りでは殆どの人間が阿波介とまではいかなくてもこの人物のように金も女も手に入れてたら満足しそうなのだが、あるレベル以上になるとやはりそうもいかなくなるのだろうか。
それから、一言芳談の愛読者だった兼好法師の解説があったが、それに盛親僧都(じょうしんそうず)という傍若無人な振る舞いをしていたにもかかわらずみんなから好かれていたという坊さんの話が載っていて、一休さんみたいな人は他にもいたんだなと思った。
しかし、この解説では欲望は否定するものの欲望に執着せざる負えない人間うんぬんみたいな事が書いてあってまぁ人生は面倒だなという感想が湧いた。