感想しか書いてない

本・映画・その他見たもの読んだもののアウトプット用のブログです。ほぼ感想だけを載せる予定

【感想】石田保昭著 インドで暮らす

実家にたまたまあったので、手に取って読んで見た。50年代後半に3年2ヶ月に渡ってインドで教員として過ごした男性の手記だった。今でもインドに長期滞在するような事は大半の日本人は二の足を踏むのに、50年代のインドでしかも現地の人と変わらない給与水準で過ごしたというのだから凄い話である。当然、内容もかなりインドの環境は酷いと書かれている。そんな感じだから、この論文?が出た時にインド留学生から苦情があったらしい。

そもそも、なんで筆者はこんな事をしたのかと言うと、元々インド史を専攻していたのと、あれほど酷い戦争を得たのに今はそれを忘れたかのように太平に暮らしている日本に嫌気がさしたのがあったようだ。それにしたって色々と思い切った事をしたものである。

しかも、現地の人と触れ合いたいというので、現地と同じ給与、同じ住居に住む事にしたというから驚きである。ただ、それ故に現地のいい加減な対応で飢えかかったりと大変な目にもあったりしているが。

あと、年代的にも彼は思想的に左寄りなので、「中国の人民解放軍は一切略奪をしないらしい」といった事も書いてあった。当然、インドでも共産党関係の人達とよく交流もしていた。まだ共産主義に夢を持てた時代ならではの文章と感じた。

インドの人々の事についても今ネットで言われている事と大して変わらなかったのが面白かった。ただ、ガリガリにやせた人がそこら中にいたとあったのでそれは流石に改善されているのだろう。

著者が左寄りの人物なので、現地の共産主義者と語り合うシーンが多く、現状はなかなか難しい状態だが、一縷の光はあるといった感じでしめくくられていた。

なんにしても、今より想像絶する搾取と貧しさが書かれているので、今のインド人が見たら日本人が戦後の日本を見ているような気分になるのだろう。

 

【感想】ソルジェニーツィン著 収容所群島(1) 1918-1956 文学的考察

 前から気になっていた本であったので、まずは6巻ある中の1巻を手に取ったが全巻読破するのは中々難儀だなと思える内容だった。書いてあることもドストエフスキーを読んでいる時みたいに急に文章の中で別の話をしたりしているので、よくわからん事も多かったがそれでも面白いと感じたのは良かった。文学的考察となっているからこんな感じになっているのかもしれないが、そっちの方は明るくないのでわからない。

 1巻は逮捕されて尋問され収容所にぶち込まれる事がどんな感じのものか書かれているが、ほぼほぼ「疑わしきは何から何までぶちこめ」といった感じだった。反革命勢力はまだしも、革命後ちょっと豊かになった農民も「富農」という事でぶちこまれ、とりしまる側もぶちこまれ、滅茶苦茶な命令を拒否した技官もぶちこまれ、しぶしぶその命令を聞いた技官も事故が起きたら責任をとらされてぶちこまれ、ひどい話は講演会で最初に拍手をやめた人もぶちこまれるのである。(皆、最初に拍手をやめたらそうなるのは分かっているので誰かが生贄になるまで必死に拍手していたそうである。最早ブラックジョークに見えてくる)

 作者は帝政時代にあった良い物や文化は全て破壊されたみたいな表現をしていたが、なんにしても行政側のむちゃくちゃぶりにはひたすら乾いた笑いしか出なかった。大粛清時代、安心できるのはベッドの中だけと言われるくらいに家族も信用できず、宗教も失墜しか社会での心の拠り所とは一体なんだったんだろう。作者は後日、信仰に目覚めているので、ああいう環境では隠れキリスタンのように神にすがるか、ウォッカをあおって早死にするかしかないのではないか。

 ただ、あんな腐敗した社会が70年くらい続いたのも権威主義がなせる技という事なんだろうか。

 個人的にだが、チェーカーのオーソドックスな拷問は不眠と塩辛い物を与えた後の水断ちだと知る。あと、シラミや南京虫が大量発生してる箱にとじこめるというのもあるらしい。どちらにしてもろくでもない。

 

 

【感想】渡辺京二著 逝きし世の面影

 この本は、著者が外国人から見た幕末明治初期の日本への情景をまとめたものであり、当時の日本が如何に現代日本とかけ離れた美しい光景と人々が見られたかというのが述べられている。当然、それは西洋人から見た色眼鏡であり、光の面しか見ていないものであると作者はくどいほどしつこく述べている。しかし、彼らが見たものは確かに現実としてあったもので、それが我々日本人が近代化によって失い、もう二度と取り戻せないものであるという悲しい結論が述べられている。よくXなどで保守系の人が「江戸時代は素晴らしいかった」みたいな発言に対して当時の衛生状況やら死亡率などをあげて突っ込まれる光景は良く見るが、この本を読んで私はインドが好きな人はかなり良い時代ではありそうと感じた。江戸時代の日本は端的に表現するなら、「人々が割合善良寄りで、街や風景が綺麗なインド」がかなり合っているのではないだろうか。しかし、この本に書かれている当時の日本人のおおらかさには、本当にこれだけ世界トップレベルで神経質になっている日本人と血が繋がっているのかと疑いたくなる。

 幕末が訪れた西洋人が「いずれこのような光景が無くなってしまうだろうと思うと悲しい」と言っているのを見ると、近代文明に冒される前の光景というのが如何に牧歌的なものだったのかが伺い知れる。「貧乏人はいるが貧困は存在しない。みな明るく陽気だ。」という事だけ聞くとまるでユートピアの話のようである。火事で焼け出されてもすぐにみんなで小屋を建てて平気な顔で復興しようとしたり、船に雷が落ちてマストが焼け落ちても落ち着いていたりと、当時の日本人の強さには驚かされるが、これは死亡率が高いゆえに死と生の垣根があまりなく、死んだとしても生きたとしてもお互い様という意識があるのだろう。それは個人間でもそうで、宿でどんちゃか騒ぎをしていても当時の日本人ならうるさいと言うどころか寧ろ、「私もまぜろ」と言ってそれで皆楽しい思いをするのだから、現代日本人とは意識が完全にかけ離れている。やはりなんとなくだがインドっぽいところがあるのではないか。

 個人的に面白いと思った事は、上流階級より明らかに庶民の方が規律がないので自由に暮らしている。当時の江戸の庶民に女言葉はなく、女性でさえべらんめぇ口調だった。なんなら女性でも女郎を買いに行くような女傑がいた(一体何をしたんだ)。基本的に男尊女卑だが、家では完全に女性(特に姑)の権力が強い。外国では珍しい夫が妻から小遣いをもらうという形式は江戸時代からあったようである。

 身分差はあるものの割と身分が違っていても対等に会話したり、老若男女上流階級も庶民も花や月、季節の移り変わりの風景や行事を楽しみ、詩や歌を吟じる。最早完全に日本から失われた光景である。ある老人はひょうたんに酒を入れ、巻紙を懐に入れ、読んで書いた歌を花にくくっていたらしい。最近は昔は良かったに対する反論が多いがこういうのを見ると、当時は死や苦しみは多いものの、精神的には我々現代人よりそれほど苦しみもなく自由に生きられたのではないかと思えてくる。重労働でさえ歌を歌いながらダラダラやっていて外国人を呆れさせたくらいである。

 子供や動物への対応もよくもわるくもいい加減なものである。ある西洋人が寺に入りたくて賄賂を渡して入れてもらったが、その時に町の子供達数百人も勝手に入ってきて鐘を鳴らしたりと遊びまくるも誰も怒りはしなかったとあり、現代日本人では考えられない事である。動物でも犬はそこら中にいて地域犬として皆で世話したり(当然、試し斬りの材料にされる事もあるが)、どぶに落ちたら先に落ちた酔っ払いより優先して救ったりと、動物達に対する視線も温かい。西洋人のそれと比べると明らかに人と畜生の垣根が低いのである。

 宗教に関しても、寺によく行くのは女子供や貧乏人が多く、男や武士といった上流階級はいかないばかりが現代日本人のように無神論っぽ感覚を持った人が多かったようだ。むしろ宗教≒祭りという感覚が強かったようだ。ゴリゴリのプロテスタントだった西洋人からはかなり異様な光景に見えたようである。ただ、お盆といった行事はしっかりやったりと明らかに宗教事は馬鹿にしていない感じではある。ただ、西洋人から見ても当時の僧侶や神官は無気力などのえらく評判が悪く、ある西洋人が寺に泊った時にお祈りしたいから場所が欲しいといったら、仏像を動かして倉庫にしまってしまったという話があるくらいだから、当時の仏教界がどれだけ形骸的になっていたかがよくわかる。廃仏毀釈で弾圧されるのも当然といえば当然になるのか。

 しかし、作者がいうようにこれらの牧歌的な景色も、幕末には限界に来ており、これから世界で生きていくのを考えると滅びる運命だったのだろうと述べられているのは少し悲しい気持ちになる。

 江戸時代の日本はユートピアではないものの近代文明に冒されていないうぶな社会ではあったのだろう。

 余談だが、マツバラン、イワヒバ、オモト、セッコク、フウランといったくそ地味な古典園芸植物というものがあるとこの本で知った。

 

 

【感想】ミヒャエル・エンデ著 モモ

以前、知り合いが文明批評もこめて絶賛していたので読んで見る事にした。

確かに、文明批評が入ったファンタジーとしてはかなり素晴らしい作品だと思えた。ジブリあたりがアニメ化したら結構合いそうな感じはするが、宮崎駿はこの作品に対してどれくらい興味を持っているのだろうか?

ただ、個人的にはモモやジジやベッポじいさんがある種理想化されたアウトサイダーだとも感じた。ファンタジーなのでこういう指摘は野暮だが、実際のモモやペッボおじさんみたいな存在は貧困と暴力に晒されているので、そんな気楽な生活はしていないと思う。

確かに現代社会は大人から子供まで暇な時間が奪われているが、それ以前の生活が素晴らしかったと言われると決してそうではないだろう。過酷な労働や家事が人々にのしかかっていたのだから。ただ、現代社会になくて以前の社会にあったものはそういう労働の時にやっていた生産性のない無駄なお喋りなのではないか。自分もかつて農業高校時代の実習や障碍者支援施設での実習をしていた際に、余計なお喋りをしていた時はかなり精神的負担も軽減され時間が経つのが早く感じたので、人類に必要なものではないのかという気はする。

生産性のない無駄なお喋りこそが孤立を予防し、精神衛生を改善するのではと勝手に思っている。

しかし、ジジは現代社会に生きていたら絶対にYoutuberになっていそうな雰囲気がある。そして、売れれば売れるほどこの作品のような状況になりそうだ。

実際にYoutuberはマグロのような生活をしている感じである。

 

余談だが、気になった台詞でベッポじいさんの長い道路を掃除する時の心づもりに「いちどに道路前部のことを考えてはいかん、わかるかな?つぎの一歩のことだけ、つぎのひと呼吸のことだけ、つぎのひとはきのことだけを考えるんだ。いつもただつぎのことだけをな。」「するとたのしくなってくる。これがだいじなんだな、たのしければ、仕事がうまくはかどる。こういうふうにやらにゃあだめなんだ。」「ひょっと気が付いたときには、一歩一歩すすんできた道路が全部終わっとる。どうやってやりとげたかは、じぶんでもわからん。」

というのがある。これはまさに大きな課題を解決するのに細かく分割してそれだけを考えて次に移るというのに似ていると感じた。

togetter.com

そういえば、明らかにバービー人形とおぼしき玩具が出てきた文明批判の対象にされていたが、ミヒャエル・エンデが映画バービーを見たらなんと思うのだろう。(まぁ、今の子供はポケモンやらの共通する玩具がないと子供社会に入れないくらいに致命的な状況になってしまっているが)

Newsweek 2023/9/12号「温暖化の明るい未来」

「人類はもっと地球温暖化に楽観していい」というホンマかいなという見出しに魅かれて読む。

概要的に言うと、「想定以上にEVなどの脱炭素の技術が普及している」からある程度楽観視していいという話らしい。

19年時点では多くの気候学者が産業革命前から5度近く上昇し、世界の広範囲が居住不能になると予測していたが、グリーンエネルギーの使用が飛躍的に増加したので上昇幅は薬2.5~3度程度になるらしい。

オックスフォード大学のアワ・ワールド・イン・データ(世界の変化をデータで読み解くウェブサイト)主任研究員のハナ・リッチー氏は著書の「世界の終わりではない」で「温室効果ガス最大排出国の中国が再エネ転換を猛烈なペースで進めている」ので一筋の希望が見えてきていると言っている。

また、国際再生可能エネルギー機関によると、太陽光発電のコストは10年から21年の間に88%低下。陸上風力は68%、洋上風力は60%も下がっている。

以前は石炭消費量も21世紀末まで増加すると予測されたが、13年を境に減少しているとされている。

全世界のEV販売台数も20年の1000万台から3000万台に増加し、前年比で60%も増えている。

産業革命より気温が5度上がれば、海水面が90cm上昇するが、気温が2度なら30cm程度に収まるそうだ。また3度高くなれば干ばつが続く期間は平均10ヶ月長くなるが、1.5度ならその期間は2ヶ月になる。動植物についても2度なら脊椎動物の8%、植物の16%が生息域の半分を失う。しかし、4.5度なら脊椎動物の42%、植物の68%が生息域の半分を失うとの事。

コロラド大学ボールダー校のマシュー・バージェス助教は「現在では平均気温は3度程度にとどまる」と言っている。

なんにしても、この特集を読んだ限りだと完全なる人類の終わりがくる可能性は低いらしいが、それでも生態系や社会へのダメージがきつそうなのでそれほどお気楽な気持ちにはなれないと感じた。しかし、これだけ戦争でごたごたしてるのにこの予測は正しくなるのだろうかという懸念もある。

 

 

【感想】大木康著 中国明末のメディア革命 ー庶民が本を読むー

X上でこの本を見つけて気になったので読む事にした。

この本によると明末の嘉靖元年(1522年)から書籍の発行が膨大になったそうである。それがどれほどすごい事かというと、同時期に欧州で発行されたドン・キホーテの初版本は申請書を提出し手袋をはめて読まなくてはいけないが、明末の本は大学図書館の本棚から素手で取り出して読めるらしい(流石に鍵のかかった特別な部屋には入っているようだが)。そういう事もあり、現在の学者が漢籍を読む際の本のほとんどが明末以降のものになるようだ。

そして、なぜそうなったかの理由としては上級階層だけでなく、科挙受験生や中規模商人といった中間層に本を読む余裕ができたかららしい。

ただ、本著ではなぜそうなったかは書いておらず、ひたすら当時発行された本がどのような内容のものかという事しか書いてなかったので、拍子抜けであった。なので個人的に推測してみると、農業の生産性向上と貨幣経済の浸透で経済が発達し、それが中間層の余裕として書籍の発行に表れたのではないだろうか。また、南宋時代に合格率が0.01%だったものが明清時代には0.004%にまで下がったようなので、おそらく科挙受験生もかなり増えたと思われる。それにより小説の読者層が形成されるくらいに識字率が上がったのではないだろうか。(そもそも漢字自体が識字率向上に難のある文字なのでよくそこまでいけたなと思う)

なんにしても個人的にはえらく浅い感じの本だなと思ってしまった。

個人的に気になった話で、当時の高級官僚が小作人の美しい嫁を強奪してそれが小作人の主人を通じて巡り巡って書籍や貼り紙に書かれて大炎上した話があり、メディアと炎上は本当に相性が良かったのだなと感じた。

それからどうでもいいが、当時の本の印刷面である版式が現代日本でも見かける原稿用紙の原型であると知ったのは意外だった。あと、明朝体という字体が印刷する際に彫師が彫りやすくするために出来たものとは知らなかった。しかも縦方向にだけ彫る職人と横方向にだけ彫る職人とで分けて生産性を上げていたらしい。そうなるとぐねぐねとまがりくねった草書体の仮名文字を彫っていた日本の彫師はかなり大変だったのではなかろうか。

 

 

【感想】かなえ先生著 もしキミが、人を傷つけたなら、傷つけられたなら

この本は10代の子を対象に向けて、いじめや少年犯罪について描かれている。かなり平易にわかりやすく書かれており、全国の学校や図書館に置く価値はあると思う。ただ、社会情勢の変化が激しい昨今なので10年くらいは定期的に改訂する必要はあると感じた。

なぜいじめが起きるのか、なぜ犯罪がおきるのか、実はあなたもちょっとしたきっかけで犯罪者になる可能性がある。そういった日常における危険を回避するための情報も多数あった。大人も読んで損はないと思われる。

本作ではいじめを予防する話は載っておらず、そもそもいじめというのは「人間が集団の秩序や団結を維持するために、それらを害する異物を排除するための本能」と説明されているので、どちらかというといじめられたらどうするかという話がメインだった。そもそも10代向けに作られているのでそういう作りになるのだろう。

いじめの発動条件が集団内で発生フラストレーションを発散するための正当化や理由が見つかると(足が遅いやみんなに迷惑をかけているなど)起きやすいというのは知らなかった。またいじめられた場合、いかにして「傍観者」を減らして「仲裁者」や「通報者」を増やすかが大事とも書かれていた。

いじめに関する説明やその他青少年が関わりやすい犯罪の事が色々書かれているが、ざっくりまとめると

・いじめられて教師も親も頼りにならないなら法務省の人権擁護機関に頼れ

SNSの告発にすぐ頼るのはリスクが高い(まずはマスコミに言えということだろうが、さんざん情報を漏らすTBSはよくないだろう)

・性産業や水商売をするなら覚悟を持て

・加害者になった場合は許されない事を前提に一生背負って生きることを覚悟しろ

といったところだろうか。

ほかにも少年院の話などいろいろあるが、基本的にかなえ先生のYoutubeチャンネルで大体説明されているので、活字が苦手な人はそっちを見た方がいいかもしれない。