感想しか書いてない

本・映画・その他見たもの読んだもののアウトプット用のブログです。ほぼ感想だけを載せる予定

【感想】映画 バービー (ネタバレ有)

最初はあまり興味がなく、伝え聞く限りではフェミニズム映画ときいたので、「バービーが目覚めて本来の自分を取り戻す」というお決まりの映画かなという感想しかなかった。しかも「バーベンハイマー」騒動まで起きていたので、余計に印象は悪かった。

ただ、アンチフェミニスト界隈で有名な小山晃弘氏が「これはフェミニスト映画の皮を被ったアンチフェミニスト映画だ!」と絶賛していたので、気になってしまい見ることにした。そのジャンルが大嫌いな人間が絶賛していたら気になってしまうのは致し方無い事。

一応、自分はフェミニストではないし、どちらかというとうっすらとアンチフェミニストかもしれないが、女叩きにせいを出すような不毛な事はやらない程度の人物ではある。フェミニズムについては全く詳しくないので、ある程度は政治的バイアスは無しで見れたと思ってる。

それをふまえて言うと、この映画は男女界隈を全て馬鹿にしているので、政治的バイアスでフェミニズム映画にもアンチフェミニズム映画にもなる作品だと感じた。他の人が全方向に向けて馬鹿にしているテコンダー朴と一緒だと言っていたが正にその通りだと思う。

ただ、基本的に男社会への皮肉というか批判は割とわかりやすいが、フェミニズムへの皮肉はあっさりというか包括的に描かれているので、わかりにくくなっていると感じた。それのおかげで炎上する事がないのだろうか。

ミラーリングと思われる表現も色々あったが、正直いってただ単純にミラーリングしてるわけではなくかなり複雑な事をしている。

バービーランドは正に「女だけの街」で大統領や学者といった社会的地位の高い職業からゴミ回収や土木作業といった男が押し込められている「ガラスの地下室」的な仕事まで全て女性がやっていて、ケンといった男性はただビーチで添え物のような存在になっている。

そんなバービーの世界観が現実では女性から批判されているという皮肉な事があり、現実社会で男らしさを知ったケンに洗脳された大統領のバービーが「男の添え物は楽しい」みたいな事を言っていたのは少し笑ってしまった(最初はなんでケンに洗脳されるのかが全く理解が出来なかったが、作中で「免疫」がないと言われていたので、ケンの男らしさに女性達が魅了されたという理解で正しいだろう。そもそも作中でケンが暴力的な洗脳をするシーンは全く無い)。しかもその後にバービーたちが洗脳された女性達を目覚めさていくのだから、アンフェ視点だとあれは皮肉以外の何ものでもないと思う。しかも、ゴリゴリの男社会であるMATTEL社の経営陣達もバービーランドを元に戻そうと奮闘しているのだから強烈な皮肉である。(しかも、「少女たちの夢を壊したくない」というくらいには女性の事を思っている)

終盤でケンやCEOが「上に立つのは辛い」と言っているのは恐らく男社会への批判というか悲哀を表現しているのだろうが、そうなると洗脳された大統領バービーが「こっちの方が楽しい」と言っていたのもあながち嘘ではなかったのではと思えてしまう。

こういうところから本作は単純に「女が男を批判する」といったものではない。バービーの創造者であるルース・ハンドラーが「人間は辛い現実を乗り越えるために男社会とバービーを作った」と言っているくらいだから。

最終的にバービーは楽園であるバービーランドを出て一人の女性として生きる事になるが、作品の途中で老婆を見て「美しいですね」というシーンがあるように、永遠の楽園に生きるより「老いて死ぬ」ことに価値を見出したのだろう。ラストで婦人科へ行くのも現実で女として生きることへの決意と喜びがあると思われる(このシーンでバービーが妊娠したんだという意見があったが、作中で「私には性器がない」と言っていたので、婦人科検診を受けにきたと解釈するのが自然だと思う)

wwws.warnerbros.co.jp

【感想】スズキナオ著 深夜高速バスに100回ぐらい乗ってわかったこと

今時珍しいサイト巡回をしていたら「深夜高速バスに100回ぐらい乗ってわかったこと」という本を見つけた。紹介文を読んだかぎりでは何のことない事を如何にして楽しむかといった感じの本だった。

なんとなく気になって読むことにしたが、内容としては「大衆的な個人経営の飲食店レビュー」「滅茶苦茶地味なレジャー地レビュー」「お金があまりかからない大人の遊び」といったものが書かれている。

著者自体が「金はないが暇だけはあるなかでどう楽しみを見つけるか」といった趣旨で書いた本なので、まるで道に落ちている小石から何か面白そうな形をしているものを探すような本だった。昨今の社会情勢的にいかにして競争に勝つかみたいな話ばかりのなかで、このような本はとてもリラックスして読める本だと思う。活字好きが肩ひじ張らずに暇つぶしで読むのに一番合う本だろうし、おそらく著者もそう読まれたらとても喜ぶだろう。

地味なレジャー地の話はなんだかちょっとつげ義春の旅を扱った漫画っぽさがあるので、つげが好きな人にもいいかもしれない。

この本が書かれた時期が2019年でかつ個人経営の飲食店を多く扱っているので、2020年からのコロナ禍で何軒生き残れたのか気になってしまう。なので、大戦前の日常の記録を見ているような気持ちにもなる。登場する店も安さが売りの店が多く、生き残っていても相当苦しい思いをしている事は変わらないだろうし、本に書かれている値段ではもう商売もしていないだろう。帯の紹介文で岸政彦という社会学者が「これが生活史だ」と評しているので、大戦前の記録だと考えるのはあながち間違ってないかもしれない。

スズキナオ氏は華やかではない日常や景色や店を「暇×好奇心×コミュ力×想像力+酒」をもってして楽しんでいる。個人経営の店主と色々と打ち解けているのは中々すごいと感じた。しかし、金がなくても好奇心と想像力があれば人生楽しくなるというのはあるかもしれないし、金があっても好奇心と想像力がなくなってしまったらとても悲しい話だと思う。

個人的に面白そうと思ったのが「マイ史跡巡り」で「自分が好きな偉人の史跡を巡るのが楽しいのだから、それを親友や恋人の思い出の土地で史跡巡りしたら面白いのでは?」というのはちょっと目から鱗だった。デートの一つとしてはかなり良いかもしれんがかなり仲良くならんと駄目な遊びでもあるのが欠点である。

 

 

バラモン左翼とは(福島原発事故での特徴)

「リベラル」「弱者の味方」を自認していた左翼界隈が独善的な正義に拘泥し、強い善意のままに「正しい」と信じて、福島への風評加害者になってしまった要因がトマ・ピケティが批判する「バラモン左翼」の特徴と共通している。

①「お客様」「被害者意識」が強く近視眼的である。自分達の日常を支えている仕組みに対する想像力に欠け敬意もない。常に自分が評価・選択できる権利を当然と考え、人の思惑が及ばない科学的事実よりも自分達の「お気持ち」が優先されるので、議論や対応の前提となる客観的事実や情報が正しく共有されない。

②国民の安全と健全な民主主義を護る手段としての「権力の監視」自体が目的化・私物化されてしまっている。これは復興も含めた様々な政策への執拗な妨害につながり、国益の損失という害につながっている。

③自らも実は別の巨大権力であるという自覚がなきまま暴走し、恣意的に弱者を選別したり、弾圧することを厭わない。自分は権力に抵抗しているつもりなのに、やっていることは被災地、被災者の利益や人権を攻撃することになっている。

林智裕著 「正しさ」の商人 情報災害を広める風評加害者は誰か p144~p145

 

 

 

カルチャーラジオ 日曜カルチャー「アイヌの文化と物語の世界」(1)視聴する。

あいうえお

NHKカルチャーラジオ 日曜カルチャー「アイヌの文化と物語の世界」(1)を視聴する。講師は千葉大学 中川裕名誉教授。

www.nhk.or.jp

アイヌの紹介として、あのゴールデンカムイがしょっぱなでとりあげられていたが、天下のNHKであの教育上良くない変態揃のゴールデンカムイが紹介されるというのも凄い時代になったものである。

そして、アイヌの文化といえばカムイだが、現代日本人からすればカムイというのは日本神話で語られるような人間より上位存在的な「神」みたいなものを想像するが、アイヌの中でのカムイはもっと範囲が広くて対等に近い存在らしい。

感覚的には自分達が存在する人工物含めたあらゆるものに魂が存在するといった感じで、それも例外はあれどお互い持ちつ持たれつという関係だそうだ。「カムイ」にいちばん近い日本語は「環境」だと中川教授は発言している。

カムイは人間に利益(毛皮やら魚やら)を与えて、人間はカムイに「感謝の祈り」(これを受け取ることでカムイの世界で格があがる。)とカムイに作れない人工物(代表的なのはお酒)を捧げることにより、お互い良好な関係を築いている。(アイヌの世界ではカムイと良い関係を築く事こそが良い人生を歩むために必要という事になっている。)

ただ、さきほどでもアイヌとカムイの関係は対等なので、川で人が溺れたりすると、その川のカムイにお礼も供物もしないぞと脅しをかけるのが面白いところである。

目にゴミが入った際のお祈りで「小さな柄杓流れろ、小さな樽流れろ」(柄杓や樽はアイヌ社会では酒を入れるものなので上等な存在になる)と言ったり、床に酒をこぼした時も「床のカムイが酒を欲しがったのだから拭いてやるな」と言ったりと些細な存在でも配慮するような思想があり、日本の付喪神なんかよりもずっと親しみやすい存在だと感じた。

 

出生が悲惨すぎる主人公と聞いて読んでみた【木枯し紋次郎(一)赦免花は散った(感想)】

 いつものようにtwiiterを覗いていたら、誰かが木枯らし紋次郎の事を言っていて、この主人公の事を虚無的な人物と紹介していて、wikipediaなどで調べてみたら、「間引かれそうになったのを姉に助けられるも、その姉も病気で死んでそれから流浪の無宿人になった」とあった。昨今の創作でも中々ないくらいのハードな設定だと思い気になったので読んでみた。

 

 読んでみて思った事は、木枯らし紋次郎がハードで悲惨な生い立ちにも関わらず、自暴自棄にもならず修行僧のようにストイックであるという事だ。あそこまで酷い環境なら獣のような人間性になってしまっていてもおかしくないはずである。でも彼にはそもそも人間誰もが持ってるような煩悩というか欲望というものはなく、社会や世界への憎悪も一切持ち合わせていない。不思議といえば不思議な人物だ。

 10歳で無宿の道に進んだとあったが、普通なら少年ヤクザや半グレの受け子のように犯罪の片棒を担ぐ消耗品として扱われ鬼畜道を進むしかないようにも思うが、彼はそんな堕ちた人間にはなっていない。自分は紋次郎シリーズはこの一冊しか読んでないので想像で言うが、最初に無宿に入った時についた師匠的人物がよほど出来た人だったんじゃないかと思えてならない。そもそも我流であそこまで強くなれるのだろうか?

 もしくはベルセルクのガッツみたいにちょっと尊敬はできる師匠みたいな人についてたけど、裏切られたみたいな話があったりするかもしれない。

 しかし、「自分は生きるも死ぬも一緒。人並に生きる努力もしないから、人並に死ねるとも思ってない。」と考える割にきっちり生活してるので、矛盾しているといえば矛盾している。そもそも巻末の解説で「言行不一致」と言われているので、周知の事実なのだろう。紋次郎って本音ではどっかで「人を信じたい」と思っているし、「人から必要とされたい」と思ってるんじゃないだろうか。だけど、今まで何度も裏切られたし、排除されてきたから自己防衛としてああやってニヒルな態度をとっているのではないだろうか。

 それはそうと、紋次郎自身は自分はこの世には本来必要ないものと捉えてこの世をさすらっているのに何か妙なシンパシーを覚えてならない。私自身も色々あったので、この世にあまり必要がないというか本来なら居場所がないのではといつもどこかで感じているからだ。どこに行っても自分の居場所はここではないという感じがあるというか。まぁ私は紋次郎のように誰かに頼られるほど何かに強かったり秀でたりするような人物ですらないので、紋次郎より世間から見ればどうでもいい人間なのかもしれない。

人間以外の世界の見え方【ゾウの時間 ネズミの時間 サイズの生物学(感想)】

 本屋でたまたま新書を見てたらいくつか気になったのがあったので購入。その中の一冊がこの本だった。

 内容としては動物・植物含めた生物には大体なにかしらの法則というか、体の構造的な制約がありその制約を抱えながらどう複雑化発展しているかみたいな事が書かれていた。

 個人的に一番面白いと思ったのは、水中というのは脊椎動物くらいの大きさの生物だと我々人間が感じるように液体として感じられるが、微生物くらいの大きさの生物になると物理学的な問題でジェルを泳いでいる感じになるという事だ。なのであんな繊毛といったもので泳げるらしい。

 あと、微生物レベルになると物理法則で物質が拡散していくので、血管や臓器がいらないという事は意外な事実だった。ただそういう生物でもプラナリアのように平べったく体を伸ばして大きくする生き物もいるらしい。(そのためにプラナリアはどこを切られても平気なのである)

 それから、移動が出来るので環境の変化が多い生き物には有性生殖が多く、逆に移動しない生き物は環境の変化があまりないので、単性生殖が多いという話は面白かった。

 

 あとがきで、著者が都会の光景を見ると、現代の文明ははたして人間の時間にあっているのか。自然と接していないと自分の頭の中を見つめ始め、抽象化していきどんどん頭でっかちになってないかと言っていたが、まぁそうだろう。だからこそ少子化などで色々と問題が出てきているのだろう。なので、人類をアップデートしたホモ・デウスみたいな概念が出てくるのも無理はない。

 

外国から見た公害映画というのは初めてだったかも【MINAMATAーミナマター (感想)】

 才能が枯れ果てたオワコンのカメラマンが異国の地で困難に直面しながらも己のやる事を再確認し、同じくオワコン化しつつある雑誌に写真を載せた事で世界を変えたという話である。

 良い映画ではあると思ったが、その地域でチッソで食っている人達が沢山いるというところの書き方が浅いようにも感じた。まぁ企業側を分かりやすい悪役にしないと映画として面白くないのだから割愛されたのだろう。しかし、企業側がデモ隊に普通に暴行してくるのが恐ろしいというか時代を感じた。今時そんな事をすればあっという間に炎上してしまうだろう。そのあたりを見れば我々はあの頃より多少は進歩できたという事か。あと、勝手に病院に侵入して史料を盗む?シーンがあったがあれは本当にやった事なのだろうか。そちらが非道極まりない事をしているのだから、こちらはこれくらいの事はなんら問題ないという事なのか。

 この映画を見るとユージン氏のおかげで水俣が救われたとも見れるが、あくまで現地の人々の活動の賜物で、彼がした事は今まで積み重ねてきた事の最後の一刺しみたいな感じだったのだろう。

 ただ、メディアが散々都合よく事実・現象を切り取って誇張するのを嫌というほど見てきた自分にとっては素直に英雄視する事はできなかった。

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 ソースはwikiだが、劇中でも出てきたこの「排水管から垂れ流される死」という写真は既にメチル水銀を含んでいない排水を有害なように撮っているので、現代だとネット上で即叩かれそうな話でもある。(ただ、写真を見た限りでは随分汚いので無害とも思えないが)

 なんにしても海外監督が日本の公害を描くというのは珍しい作品だった。

 

 水俣といえば個人的に印象が残っているエピソードがある。高校時代に環境問題を扱った授業を受けたのだが、その時に教師から、かつて東南アジアから留学で来た子たちに水俣に関する映像を見せたところ「発展の為には仕方がない事だ。うちの国ではこんな工場がなくても貧困で綺麗な水が飲めずに大勢の人間が死んでいるんだ」と答えた話を聞いた時は今までの常識がひっくり返るような体験だった。

 その話を聞いた時は、彼らの親族が水俣病みたいな事になってもそう言えるのかと思ったが、昨今の我が国の貧困に関するあれこれを聞くとなんとも煮え切らない気持ちになる。