感想しか書いてない

本・映画・その他見たもの読んだもののアウトプット用のブログです。ほぼ感想だけを載せる予定

地獄太夫という室町時代の大人気遊女がいたのだが

 あの一休和尚とも仲が良かったと言われる室町時代の大人気遊女で、地獄太夫というのがいる。

ja.wikipedia.org

 なんで地獄太夫という名前なのかというと、賊にさらわれて遊郭に売られたのは前世の行いが悪かったからだとの事。昔はそれを聞いて変わった人だなくらいにしか思ってなかったが、人気遊女でも前世の行いが悪かったなら、その下に大量にいたお茶引き底辺遊女はどんな気持ちで彼女を見ていたのだろうと思うようになった。彼女が前世での行いであの状況なら、私らは前世で一体どれほどの悪行をしたのかと思った遊女はいくらかいたのではないか。

 そもそも、昔は難病やら大きな不幸に合うのは前世の報いとか言われていたが、そんな事で当時の人は本当に納得したのだろうか。前世のせいでこんな事になってんだから、来世の為にキツイ現世で善行をしろみたいな考えでもあったのだろうか。まぁそうでもしないととてもじゃないとやってられんわな。不幸に苦しんでいるのに「それは前世の行いが悪かったから」なんて言われてもただ突き放しただけの恐ろしく冷たい言葉だもんな。

 話はちょっと戻るが、地獄太夫よりひどい境遇の遊女の気持ちに思いが少し巡るようになったのは、今まで声を上げにくかった底辺の人たちの言葉がネットやSNSの発達で可視化しやすくなったからなのだろうか。

 少なくともコミュニケーション能力が皆無でも、ある程度の学力があれば自分の声を出せる環境にはなってる。それが良いのか悪いのかは自分にはわからない。カオスが深まる感じはするし、現にそうなってる。

信仰がある人達の世界とはどういうものか【紀野一義著 生きるのが下手な人へ(感想)】

 何故、この本を読もうと思ったというか手に取ったのかというと、twitterを覗いている時に紀野一義という太平洋戦争で一度の失敗で死に至る不発弾処理を1752回も行い成功して故郷へ生還するも、原爆で家族友人全てを無くすが、それで仏典の神髄を得た人がいる事を知ったためである。自分はこの事を知って松本零士の体験談で、戦地から生還するも家族が空襲で全滅したショックで鉄道自殺した兵士の話も思い出した。

 似たような体験をしたにも関わらず、何故こうも違う事になったのかが気になった。そういった経緯もあり、彼の著作で一番有名な本著を読んでみる事にした。

 内容としては信仰に篤い歌人やそれにまつわる人達に関するエッセイみたいなものだったが、いまいちあまり腑に落ちない感じだった。ただ、なんとなくわかった事は信仰による大きな世界観で生きている人たちが多かった様に思う。「俗世をなんとかして効率的かつ楽なように生きたい」もしくは「それが出来なかったらお前の人生は全く意味がない」という世界観で生きている自分達とはえらい違いである。

 個人的に一番気になった人物は吉野秀雄という歌人で、彼は病弱で貧乏で最初の奥さんも亡くし、長男は精神病の後に自殺しているというかなり酷い人生のように見える。そんな人が長男が発狂して精神病院に入院した際に「世間に不幸は無限に起り、流行病・交通事故・海や山の遭難等、毎日マスコミが報道してもしきれないほどあるが、その一つが具体的に、こんな形でわが家にふりかからうとは、夢にもしらなかった。わたしの心臓はまさにとまらうとし、わたしの脳裏にはさまざまな妄想がひらめいた。わたしの命がいま絶えたら、どんなによかろう。いっそかれを殺し、自分も死んだら始末がつきやすいのではなからうか。自分も発狂し、精神病院でかれといっしょにくらせないものだろうか。しかし、いうまでもなくできないことはできない。無力であるよりすべはない。第一せがれの不幸にまきこまれたからといって、自分だけの安逸を願うなど、贅沢も無責任もはなはだしい。なんとしてもわたし自身がこの出来事を直視しなくてはならない。でも絶望しきったわたしに、それが果たして可能であろうか。とつおいつ、とまどっているとき、わたしははからずも、ナムアミダブツ、ナムアミダブツと、二声三声唱えた。からだ全体で、しかもしぜんにうながされて、こんなあんばいに称名念仏できたことは以前に覚えがない。」と記している。普通なら信仰自体をやめそうな状況にも関わらず、より信仰心を感じている事が気になった。とりあえず、合理的科学的なものに沿って生きていると思っている自分には理解不能な感覚だと思った。

 あと、22歳で未亡人になり息子を太平洋戦争で亡くした身よりのない念仏者の老婆が、ガン治療の後に息子が死んだ戦地に何度も通ったので、医師が「なんであんなに元気なのですか?」と聞いたら「体のことはお医者さんに預けて、命は仏様に預けているから楽なもんです。」と言ったそうだ。

 ある意味達観していると言えるし、ある種の思考停止?と言ってしまっていいのだろうか。何もかも自分の力でなんとかしなくてはならないとせっつかれているような現代人には到底及ばない考えなのかもしれない。

資本主義という宗教がどのように成り立ったか【解読ウェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(感想)】

 現代ビジネスを読んでいたらこの記事を見かけて興味を持ったので読んでみた。

  内容としてはウェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」を原著より分かりやすく説明したものである。ただそれでも自分の読解力では理解できなかった面は多かったものの、それなりに面白い本だった。

 そもそも「資本主義の精神」というのがどういうものかと言うと、「信仰のために労働と節制に励み、余った利益を運用して資産を増やす」というまさに今話題のFIREに近いような事をしていると感じた。より俗っぽい事を言えば「コスパの良い生活」というべきか。

 ウェーバーが資本主義の精神の体現者と評しているベンジャミン・フランクリンの経済倫理がわかる「若き商人への手紙へ」で、資産運用の謳い文句に使えそうな文面があった。

 「信用は貨幣である。お金を貸せば利息が入るのだから、お金は運用しなければならない。そうでなければ、あなたは運用で得られたはずのお金を、すべて殺してしまった事になる(一匹の親豚を殺せば、そこから生まれるはずの子豚を千代目の子孫まで殺すことになる。同様に5シリングの貨幣を殺せば、そこから生まれるはずの数十ポンドの貨幣を殺すことになる。)」

 要約して「運用しない事は子豚を産む親豚を殺すに等しい」みたいな事にして広告に打ち出せば使えそうではないか。

 そもそも今の資本主義のように貪欲に利益を追求する事は資本主義社会以前にも存在するが、それには身分から解放された職業倫理・救済への関心(経済への無関心)がないために資本主義社会とは違ってくるらしい。

 何より「天職」という概念がなかったので、伝統的社会での労働者はより稼ぐ事よりもあまり働かない事の方が魅力的だったそうだ。(賃金を上げるとかえって働かなくなる)

 そういうような状況がウェーバー曰く「教育」によって変化し「天職に一生懸命専念して富を増やす」という事を多くの人がするようになったとのこと。それがプロテスタントの土地で多かったらしい。

 あと、この本で興味深かった事は16世紀以降のカルヴァン派が宗教的儀礼に一切頼らずに、日常生活を徹底的に合理化して生きる事が魂の救済につながると信じていた事だ。天国行の人間はすでに決まっているいるので、自分が救われる人間である事を実感する為に余計な宗教的儀礼はせずにひたすら仕事と倹約に励んだそうだ。

 このような事を「脱呪術化」という。これで、周囲のものは何も自分を救済しないと考え一人でひたすら魂の救済を信じて生活を合理化して生きるそうだ。しかし、なんとも心の休まらない考えだなとも個人的には思う。なんにしもて昔の人間は死んだ後の事をやたら気にするので、現代人の我々から見るとなんとも馬鹿馬鹿しいように思うが、現代的に考えると老後の心配をひたすら気にするようなものだろうか。当時は今よりずっと死が身近だったわけだから、死後の事は普通に関心事だったのだろうか。

 

 とりあえず、ざっと読んだが、この分野については元々そんなに知っている事が少ないので中々内容を理解する事が出来なかった。

 それでも資本主義という宗教がどのようにしてこの世界に行き渡ったかがなんとなくなぞらえたような気はした。

 あと、巻末で紹介されていた「人生の理想とは何か。それは自分で探さなければならない。しかし何が理想でないのか。批判したいものを藁人形にして、自分の現状に胡坐をかいてはならない」というプロ倫の言葉にグッときた。

 

当時の中国は今でいうインドのような存在だったのか【上海游記(感想)】芥川龍之介

 どういうわけか、ふと一昨年に芥川龍之介が上海に行った時の事をドラマ化したやつがあったなと思い出して、青空文庫にないかと探してみたらあったので読んでみた。

  NHKのドラマの方はTVで放送せねばならぬのもあって、猥雑なもののあくまで絵になる光景が多かったが、原作の方は綺麗な庭園でも立小便が多くてあちこち小便まみれだったなどとちょっとえぐい表現が目に付いた。

 個人的に気になったのはとにかく庭園でも舞台の楽屋裏でも「汚い」みたいな事を作者が書いてるのが気になった。Youtubeなどで20世紀前半のアジアの映像を見れるが、心なしか日本は綺麗な感じで中国のそれは小汚いように感じていたがそれは贔屓目ではなかったという事なのだろうか。

 芥川は「詩歌に出てくるような光景は中国に無かった。ただ小説に出てくるようなものは結構あった」みたいな事を言っていたので、まぁそういう事なのだろう。

 あと、彼が章炳麟に会って話した時の内容で(章炳麟は手塚治虫の一輝まんだらでも出てきたのでなんだか感慨深かった)、「中国人は極端を嫌って中庸を愛する国民だから赤化してもすぐそれをなげうつ」といった事を言っていたが、彼が今の中国を見たらなんと言うだろう。そもそも共産主義思想が学生にしかウケないと思っていたのが彼の間違いだったのだろうか。

 しかし、他の中国の土地ではできなかった屍姦でさえも上海ではすぐに出来るといった事まで書いてあるので、当時に上海の魔窟ぶりがよく窺える。なんというか、長い歴史と不潔さと何かよくわからんものが大量に蠢いているという感じが少し前の日本人のインドに対する視線とちょっと似てないかなとこの作品を読んで思った。

 ただ、当時の中国は上海以外でも魔窟っぷりがすさまじかったのではないだろうか。

満州の阿片窟を調査した「大観園の解剖」という本があるのだが、そこに書かれている内容も凄まじいので自己責任が伴うが一見の価値のある本だった。国立国会図書館デジタルコレクションにもあるが、都市の図書館ならおそらく借りられる本だと思うので興味のある方は手に取って読んでみてはどうだろうか。

 個人的に芥川はずっと日本に引きこもっていたイメージだったのだが、このように大陸に渡って当時の識者と色々話をしていたのは意外だった。

 

悪女列伝として読むなら相当面白い【女帝 小池百合子(感想)】

 ある意味、前回の記事からの続きとして「女帝 小池百合子石井妙子著)」を読む。

  とにかく、一人の悪女が成り上がるために親も何もかも利用して巻き込んでいく様は一つの物語としてかなり面白かった。個人的にはカイロ大学生から政治家になるまでの話が特に面白く、ネットフリックスあたりでドラマ化したら一番盛り上がりそうな展開だった。ただ、政治家になってからはグジグジした権力闘争の繰り返しになるので、それほど面白いとは思えなかった。

 ただ、読んでいて思ったのだがあまりにも話として出来過ぎているので、蝉丸Pに習い「真実はいつもいまひとつ」と捉えている自分としては眉に唾をつけたくなる事が何度もあった。(事実は小説より奇なりというのはあるがそんな事は滅多にない)

  あと、豊洲問題で出てくる築地のおかみさん達でもそうだけど「女性だから信用できる」みたいな事がちょくちょく出てきて世間の認識としてはそうなのかと意外に思ってしまった。ある種、女性というのは神聖視されているのだろうか。普通に考えれば男女関係なく信用できるとは限らないのに。

 正直、最近は記者やライターの信用が落ちている面があるのと、この本の内容を見ても「巨悪に挑む正義のジャーナリズムをしている!」という感じがプンプンしているので、どこまで信用していいのかとも思ってしまった。「嘘」は言ってないにしても「脚色」や「誇張」も結構あるのではという思いは読んでてずっと拭えなかった。(自分は小池を政治家としては全く評価していないのであしからず)

 最初にいったように「悪女列伝」として読むには相当面白いのでそういうスタンスで読むのが一番良い本ではないだろうか。

 それにしても、この本で言われているように進次郎や小池のようなメディア受けばかり良い人間が行政のトップになるのはなんとかならないのだろうか。

 

 

学問を学ぶ場というより人脈と政治力をつける場という感じだった【”闘争と平和”の混沌 カイロ大学(感想)】

 自分がこの本を読んだきっかけは以下のツイートを見かけて気になったからである。

 「ハンター試験への理解が深まる」とはなんぞ?と思わざるを得なかった。

 この本は著者の浅川芳裕氏が、高校の時にニュースで湾岸戦争を見た事がきっかけで中東に興味を持ちカイロ大学に留学した体験を元に書かれた本である。(しかし、著者は山口という地方で外交官を志し、かつ高校卒業後は米留学を考えていたのだから実家がかなり裕福なんだろうか。もしくは当時はそういう事がまだやりやすかったのか)

 なんにしても、最初にカイロの猥雑さと魔都について色々書かれているのだが、国民も含めてインド社会の亜種のように感じた。そもそも歴史のある大陸国家は大体そんなものなんだろうか。

 カイロ大学自体がイスラム原理主義から西洋的なリベラル的なものから様々な思想のごった煮から生まれており、まさに最初から混沌と呼ばれるに相応しい大学だった。

 この大学は構内に秘密警察の部署があったりと政府の圧力が強いもののそれでも地下では思想輸出みたいなものが強く、現に世界で名をはせるイスラムテロリストもこの大学出身者が多い。

 そもそも、この大学のレベル自体も世界的に見ればそれほど高くなく、純粋に学問をしたい場合は全く勧められない。ただ、それでも全中東から留学生が集まる大学なのと、日本社会では経験しない交渉が日常茶飯事のエジプト社会なだけあって、人脈作りと政治力を鍛えるにはもってこいの場所だと感じた。

 話はずれるが、あの小池都知事もこのカイロ大学を首席で卒業という事になっていて、またそれについての疑惑もあるが、この本を読めばこの大学はそんな些末な事を求める場所ではないなと思ってしまう。エジプト社会も演技力とはったりをかます必要があるので、卒業したしてないみたいな事は小さな事なのだろう。同じ卒業生のサダム・フセインも卒業試験に試験官を前にして拳銃を机の上に置いて、それで卒業資格をとったというのだから。

 しかし、著者は「自分が中東問題に関わっていこう」みたいなある種のロマンをこんな若いうちからもっていたのは凄いなと感じる。また、それがエジプト軍人と仲のいい日本人女性に「エジプトの諜報機関は優秀だから日本に逃げても無駄よ」と諭されて心が折れたというのもまた凄い話だった。

 一読の価値はあり。読んで損はない本です。

 

 

俺たちに未来はあるのか【21世紀の啓蒙(下)感想】

上巻の続き

arushunogomitame.hatenablog.com

 

 図書館に怒られながらなんとか昨日、読了する。

 面白いけど長いんよ。この本は。

 

 前のブログでも書きましたが、これに書いてあることは本当かなと思うものの正しいのなら認識を改める必要があるし、安直に絶望するのは愚かな事だなと感じた。

 ただ、この本で言われている「人類は進歩している」という事が自分に利益を与えてくれているのかと少し疑問に思っている。

 

我々は余暇が増えて豊かになっている

  現代人はクソ忙しい。とにかく時間がないと言われているが、なんとこの本には現代人はどんどん余暇が増えていると言っているのである。

 少し学のある人であれば、労働時間は農耕民族より狩猟民族の方が少ないという話を聞いた事があると思うが、実はこの話には説明されていない事があり、確かに「食料を得る時間」は農耕民族より短いが、「食料を食べるために準備や加工する時間」を入れると普通に長時間労働になるそうだ。

 例としてサン族はそういった労働に一日7~8時間、週に6~7日も働いている。

 場所はアメリカで時期は1900年~2011年になるが、家事労働の時間が週58時間から週15.5時間に減っている。洗濯だけでみると1920年代は週11.5時間だったのが、2014年には1.5時間まで減っている。

 また、明かりの値段が下がった事も夜の余暇時間を増やしている。極端な話を言うと紀元前のバビロニア人が夜の明かりを1時間灯すための油を作るのに50時間の労働が必要になるが、現代では0.5秒しかかからなくなった。

 家族と過ごす時間も現代人は少ないと言われている。しかし、アメリカの話ではあるが、1924年に子供と1日二時間以上過ごす母親は45%(0は7%)、父親は1日一時間過ごす場合なら60%だが、1999年にはそれぞれ71%、83%まで上昇している。シングルマザーにおいては1965年の既婚の専業主婦より多い。

 触れる事の出来る情報は各段に増え、旅行に行くハードルも格段に下がっている。

 ただ、この辺はアメリカの話なので少なくとも日本にはあてはまってないような。あと、家事や雑事の時間は減っても労働は(少なくとも日本は)増えていないか?

 

現代人は孤独になっているのは誤りらしい

 この本に載っている図によれば1978年~2012年のアメリカの学生の孤独感は低下の一方であった。ただ、2008年から日本の高3と高1と中2にあたる学年の孤独感が増加傾向にあったのが妙にひっかかった。

 著者はおそらく技術の発展で昔よりずっと気軽に他者に触れ合える機会が増えたから孤独感は減っているはずという事なのだろうが、ネット越しと面と向かって会うのでは触れ合う情報量が断然違ってくるので、本当に孤独感は無くなっているのかと思うことはある。

 まぁ孤独感が減るほど面倒が増えるというのもあるので何事も一長一短はあるのだが。少なくともマトリックス並の仮想空間ができればこの問題は解決できそうではある。

 

むやみに脅威を語ることが危機を作り出す

  2013年に英語圏4か国で行われた調査によると、「現在の生活様式は今後100年以内に終わると考えている人は、人類の未来に希望は持てないので、愛する人を大切にする事に集中するしかない」と考えているそうだ。また、世界の15%の人とアメリカ人の4分の1は世界の終わりを信じている。

 エリン・ケルシーという人物は「映画には、暴力やセックスシーンから子供を守るための年齢制限があるのに、科学者を小学二年生の教室に招いて、地球が滅亡すると語ることについては、私達は何とも思っていない。だが(オーストラリアの)子供の4分の1は世界の現状に胸を痛め、自分達が大人になる前に世界の終わりが来ると心から信じている」と言っていて、この辺はまさにその通りだと感じた。ただ、こういうのは昔からの娯楽だから規制するのは難しそうだ。大体1970年くらいからの科学シリーズでこういう滅亡ものが多くあったように思うが、歴史的に見たら最近の傾向なのだろうか。

 現状だけ見ると科学技術は災害から人類を守っているので、純粋に科学技術で人類が滅ぶのはオカシイ話らしい。そうかもしれないし、そうでないのかもしれない。

 

人工知能は進化しても人間を滅ぼさない

 そもそも、知能自体に目的は存在しないので、人類を滅ぼすという判断をすると考える事自体がナンセンスだし、それをAIをいじっている研究者が一番思っている事らしい。まぁそういう話はこの本以外でも聞いた事がある。あと、欲望の存在しない人工知能が人類を滅ぼしてどうするのと個人的に前から思っていた。

 しかし、この章でスティーブンピンカーが「高い知能を持っているからといって冷酷になるわけではない。その代表例が女性。」と言っていてこの辺は色々と議論を呼びそうだなと思った。

 

悪意のある個人やテロリストは存在しない

 ハッカー一人で世界を破滅させるほどすでにネットワークは複雑になっているし、テロリストが世界を滅ぼそうにも、国家の目をかいくぐってそのような事が出来る人材を集めて実行することは困難極まりない事である。確かにそうだろうな。なにかが世界を完全支配というのはよほど何かしらのシンギュラリティかなにかしらの奇跡がないかぎりないだろう。

 

バイオテロは非常に困難で効率が悪い

 この本では感染力が高く殺傷率の高いウイルスや菌をつくるのは相当大変な事だそうだ。この本の著者スティーブン・ピンカーはマーティン・リース卿の「2020年までにバイオテロやバイオ事故で100万人規模の死者が出る」という予測にNoと賭けたとの事。このコロナは自然発生なのか事故なのか判明するまで相当時間がかかりそうだから、賭けの答えはまだまだ出そうにない。

 

核兵器

 この本ではアルゼンチンがイギリスに戦争をしかけた例などをあげて、核兵器が戦争を抑止する事はないと言っているが、本当だろうか。この辺は少し感覚的だが疑問がある。しかし、数字の上では年々核兵器自体は減っているのでマッドマックスや北斗の拳の世界が訪れる可能性は下がる一方なのは間違いない。

 

将来に進歩をもたらしうる技術の数々

 原子力発電の小型モジュール炉(SMR)の形態をとる第四世代の原子炉

 液体金属電池

 新型のゼロ・エミッションタイプのガス火力発電(蒸気ではなく排気でタービンを回

 転させ、二酸化炭素は地下に隔離する)

 デジタル・マニュファクチュアリング(ナノテクと3Dプリンタ技術、ラピッドプロ

 トタイピング〈試作品を迅速に製造すること〉の組み合わせ。これによって鋼やコン

 クリよりも強度の高い資材を製造できるようになる。)

 ナノ濾過法

 精密灌漑と水資源のスマートグリッド(安価なセンサーとAIチップを活用)

 遺伝子組み換え作物

 ドローン

 ラボ・オン・チップ(一滴の血から病気予測診断ができる)

 スマホやウェブを使ったオンライン教育。グラニクラウドなど。

 プラットフォームの大衆化

 アプリケーション・プログラム・インターフェース

 

 これらがうまくいけば「第二の機械時代」がおとずれるらしい。ただ、経済停滞から救えるかはわからんとのこと。便利になってもあまり幸せになれない世界になりそうな。ただ、今でも昔と比べても見えないところで豊かになっているところが多くなっているのは間違いない。

 

理性

 すべてが「主観」であるというのなら、その主張も主観によるものなので、正しい証明にはならない。主観主義者は矛盾しているという事になる。(己の主張そのものが主観によるものになるから)

 理性はすべてに先立つもので、第一原則として証明する必要もない(そもそも証明もできない)。少なくとも人間は理性を使う能力によって進歩してきたのは間違いない。とりあえず「人間は完全に合理的にはなれないが、ある程度は合理的になれる」というのが妥当な線なのかも。

 この辺の話で一番面白いと思ったのが「人は政治的になると思想の右左、高学歴低学歴関係なく馬鹿になる」というところかな。自分の信条に合わない答えを人は認めなくなる。

 著者はイデオロギーのせいで人類は損害を被ってきたと言っている。この意識はネット界隈でもそう思っている人が多そうだ。

 

驚くべき精度で予測を当てる「超予測者」の特徴

 フィリップ・テトロックがどういう人達がしっかり予測できるか調査したところ、官民含めたあらゆる専門家チームの予測はダーツを投げるチンパンジーと変わらなかった。

 特に成績が悪かったチームの特徴としては

 ・考え方がひどく観念的

 ・複雑な問題に出合うと因果関係の型にはめ込もうとし、上手くはまらなければ無関

  係で不要なものとして切り捨てる

 ・曖昧な答えに我慢がならず、自分の分析を限界まで推し進める

 ・「さらに」「そのうえ」と理由を重ねて、自分が正しく他の人々が間違っているこ

  とを強調しようとする。

 ・驚くほど自信満々で断言しがち

 ・自分の結論に固執するあまり、予測が外れたとわかってもなかなか考えを変えよう

  としない。

 ・行き詰まると「いや、もう少し待てばわかりますよ」と切り抜ける。

 

 世間の注目を浴びている専門家に多い。

 

 ただ、チンパンジーに勝っているチームもある。そういうチームは

 ・数多くの分析ツールを使い、取り組む課題に応じて使い分ける。

 ・出来るだけ多くの情報源から多くの情報を集めた。

 ・考える時に「しかし」「でも」「とはいえ」「その一方」といった転換語を使って

  頻繁に頭を切り替える。

 ・確実性ではなく、可能性や確率について語る。

 ・素直に間違いを認め考えを変える。

 ・性格は知的好奇心が高く、変化を好み、知的活動を楽しむ。また不確実性を受け入

  れ、物事を多角的にとらえる。衝動的ではなく直観を信じない。

 ・ノンポリ

 ・自分の考えに合わないエビデンスも考慮に入れる。

 ・自分と同意見の人より、異なる意見の人の話に耳を傾ける方が有益。

 ・意見を変えるのは弱さの表れではない。

 ・決断するときに直観を一番の頼りにしない。

 ・自説と矛盾するエビデンスが見つかったら考えを変える。

 ・ベイズ推定をよく使う。

 ・群衆の英知を信じていて、自分の考えをさらけ出して批判や訂正の意見を仰ぐし、

  他の人々と予測を出し合うことを厭わない。

 ・世界を偶発性や不確実性に満ちたものと捉え、必然や運命として考えない。

 自分が使えるかどうかは置いといて、この本は面白そうね。

 

政治の二極化と大学の左傾化は進んでいる 

 著者は「人間の本性を考える」で色々と叩かれたらしい。

人間の本性を考える  ~心は「空白の石版」か (上) (NHKブックス)

人間の本性を考える ~心は「空白の石版」か (上) (NHKブックス)

 

 ただ、著者は歴史的にみれば理性が真実を広めてきたので、長期的にみれば解決するみたいな事を言っていた。無学な自分としては早くその時がくればいいねとしか言いようがない。

 

党派性の克服には理性的議論のルールも必要

 議論のルールを設けることで、「信念の共有地の悲劇」や推論をアイディンティティーから切り離す事が可能。ラビの途中で立場を入れ替えて逆の意見を擁護させたり、敵対的コラボレーションといって意見の合わない者同士が組んで問題の根底を探る方法や、もっと簡単なものだと詳しい説明を求めるだけでもあるていど効果があるらしい。(ただ、国政のような大きな集団の話になると限りなく机上の空論のような気もする)

 少なくとも、ユーゴ・メルシエとダン・スペルベル曰く「人の推論能力は、偏りのない立場に置かれた場合には十分論理的に発揮することが出来る。他人の主張や議論に勝つのではなく真理を欲する時がそうだ。」と言っているので、あまりにも人間を愚かな存在と言うのは乱暴な話なのだろう。

 著者は「理性的な政治の実現を諦めるな。」と言っている。文明が進歩したのを見ると確かにその可能性はあるのだろう。

 

文化人の科学認識

 彼らは科学者を科学がすべてであるとか、あらゆる問題を科学で解決すべきと考えている人種だと思っている。

 著者は科学的思考を擁護することと、科学者のギルドを崇めることは全く別だと言う。そういうのは開かれた議論、査読、二重盲検法といった科学的視点からかけ離れているとのこと。

 科学は常識が変わっていくから良いという感じかな。

 

民族紛争・非暴力運動の効果

 隣接する民族同士が暴力沙汰を起こさずに共存している割合。旧ソ連の場合は95%。アフリカは99%になるらしい。マジかいな。

 非暴力抵抗運動も成功したのは運が良かっただけと言われるが、エリカ・チェノウェスとマリア・スティーヴンは1900~2006年の間の政治抵抗運動を調べたところ、非暴力抵抗運動の4分の3が成功し、暴力がともなう運動は3分の1しか成功してないらしい。よくガンジーは相手がイギリスだから成功したと言われるが、この事が正しいならダライラマも良い戦略をしているという事になるな。

 

科学と人文学の協力は双方の得になる

 人文学の低迷は文化の反知性主義的傾向と大学の商業化が背景にある。ただこれは人文学の自業自得の面がある。ポストモダニズムの失敗。大胆な反啓蒙主義。自己論駁的な相対主義。抑圧的なポリコレ。これらのものからまだ立ち上がっていない。

 著者はニーチェフーコーなどのポストモダニストをえらく批判している。

 なんにしても、考古学や心の哲学を科学と融合させる動きは進んでいるので、これら二つは協力すべきと訴える。

 

ヒューマニズム功利主義的主張がもつ利点

 ジョシュア・グリーンは、義務論的な信条の多くが、部族主義、純粋性、嫌悪感、社会規範といった原始的な直観に根差しているのに対し、功利主義的な判断は合理的思考から生じると述べている。

 

ニーチェを切り捨てろ

 すべての問題が「危機的状況、大災厄、異常発生、存亡の危機」というわけではない。すべての変化が「何々の終焉、何々の死、ポスト何とか時代の夜明け」というわけではない。悲観主義と洞察の深さを混同してはいけない。問題は決してなくならないが、解決は可能である。一つ失敗するたびに社会が病んでいると診断するのは、冷静さを欠く大仰な振る舞いだ。

 ニーチェの思想は先鋭的でイケているように見えて、ヒューマニズムはダサいように見えるが、平和と愛と理解のどこが滑稽に見えるというのだ。

 

 正直いって、ここに書かれていることがどれだけ正しいのかは自分にはわからないが、少なくともこれだけ世相がどんよりした中で人類に対して希望を語っているのは凄い事だと素人ながら感じる。

 本邦のインテリはしたり顔で陰残陰鬱な話しかしないのだから、少しは彼の爪の垢でも飲んだらどうだろうか。

 あと、この本でやたらニーチェを叩いているが、それについての反論の返答が検索したら出てきた。

 

davitrice.hatenadiary.jp