感想しか書いてない

本・映画・その他見たもの読んだもののアウトプット用のブログです。ほぼ感想だけを載せる予定

信仰がある人達の世界とはどういうものか【紀野一義著 生きるのが下手な人へ(感想)】

 何故、この本を読もうと思ったというか手に取ったのかというと、twitterを覗いている時に紀野一義という太平洋戦争で一度の失敗で死に至る不発弾処理を1752回も行い成功して故郷へ生還するも、原爆で家族友人全てを無くすが、それで仏典の神髄を得た人がいる事を知ったためである。自分はこの事を知って松本零士の体験談で、戦地から生還するも家族が空襲で全滅したショックで鉄道自殺した兵士の話も思い出した。

 似たような体験をしたにも関わらず、何故こうも違う事になったのかが気になった。そういった経緯もあり、彼の著作で一番有名な本著を読んでみる事にした。

 内容としては信仰に篤い歌人やそれにまつわる人達に関するエッセイみたいなものだったが、いまいちあまり腑に落ちない感じだった。ただ、なんとなくわかった事は信仰による大きな世界観で生きている人たちが多かった様に思う。「俗世をなんとかして効率的かつ楽なように生きたい」もしくは「それが出来なかったらお前の人生は全く意味がない」という世界観で生きている自分達とはえらい違いである。

 個人的に一番気になった人物は吉野秀雄という歌人で、彼は病弱で貧乏で最初の奥さんも亡くし、長男は精神病の後に自殺しているというかなり酷い人生のように見える。そんな人が長男が発狂して精神病院に入院した際に「世間に不幸は無限に起り、流行病・交通事故・海や山の遭難等、毎日マスコミが報道してもしきれないほどあるが、その一つが具体的に、こんな形でわが家にふりかからうとは、夢にもしらなかった。わたしの心臓はまさにとまらうとし、わたしの脳裏にはさまざまな妄想がひらめいた。わたしの命がいま絶えたら、どんなによかろう。いっそかれを殺し、自分も死んだら始末がつきやすいのではなからうか。自分も発狂し、精神病院でかれといっしょにくらせないものだろうか。しかし、いうまでもなくできないことはできない。無力であるよりすべはない。第一せがれの不幸にまきこまれたからといって、自分だけの安逸を願うなど、贅沢も無責任もはなはだしい。なんとしてもわたし自身がこの出来事を直視しなくてはならない。でも絶望しきったわたしに、それが果たして可能であろうか。とつおいつ、とまどっているとき、わたしははからずも、ナムアミダブツ、ナムアミダブツと、二声三声唱えた。からだ全体で、しかもしぜんにうながされて、こんなあんばいに称名念仏できたことは以前に覚えがない。」と記している。普通なら信仰自体をやめそうな状況にも関わらず、より信仰心を感じている事が気になった。とりあえず、合理的科学的なものに沿って生きていると思っている自分には理解不能な感覚だと思った。

 あと、22歳で未亡人になり息子を太平洋戦争で亡くした身よりのない念仏者の老婆が、ガン治療の後に息子が死んだ戦地に何度も通ったので、医師が「なんであんなに元気なのですか?」と聞いたら「体のことはお医者さんに預けて、命は仏様に預けているから楽なもんです。」と言ったそうだ。

 ある意味達観していると言えるし、ある種の思考停止?と言ってしまっていいのだろうか。何もかも自分の力でなんとかしなくてはならないとせっつかれているような現代人には到底及ばない考えなのかもしれない。