感想しか書いてない

本・映画・その他見たもの読んだもののアウトプット用のブログです。ほぼ感想だけを載せる予定

時代と場所の隔たりがあっても人は似たような事をする【世界の辺境とハードボイルド室町時代(感想)】

この本は内戦状態のソマリアと室町社会が似ているのではないかというある翻訳者のツイートで始まった対談をまとめたものらしいので、いかにも21世紀らしい本である。層が違うためにいらぬ衝突ばかり繰り返しているtwitterにあって数少ない良い結果なのかもしれない。

 

なんにしても、常識というものが自分達の思っている以上に流動的なものである。また、中世を見るには発展途上国の辺境に行かないと見れないというのは色々と感慨深かった。

この本は色々面白い話が多いので、今回はそれらを羅列して感想だけ書いていきます。

 

第一章「かぶりすぎている室町社会とソマリ社会」

この章では室町社会とソマリ社会がどのように似ているか、またはそれぞれどのような社会かという事が主に述べられていた。どれも現代社会では想像できない世界の話で、話のとっかかりとしてはこれ以上ないくらい面白い話だった。

 

ソマリアと室町は一見なんの共通点が無いように見えるが、複数の秩序が何層にも重なっていてそれが原因でトラブルがよく起こるという事だった。

 

例を言えば、室町では幕府が出した法律があると同時に村落レベルや職人集団などではまた別の法律が存在し、ソマリアでは政府が出した法律があると同時に氏族レベルでの慣習法が別にあると言った感じである。(ただ、ここまでではないものの現代日本でも学校や相撲協会といった風通しの悪い組織だとこれに近いものがあるよね)

 

他には両社とも盗みに対して恐ろしく厳罰主義である。ただ室町だとほぼ殺されるのは確実で、盗まれたものは武士や荘園が回収して被害者の元には戻らない。そもそも当時は物に何か魂がやどるような考え方をしているので、盗まれたものは穢れたと感じていたらしい。そうなると殺されるのも理解出来る気はするが、物がない貧乏な時代故の話に思えて少々悲しくなる。

 

辺境は危ないイメージがあるが、構成員が全員顔見知りなので安全である。むしろ都会の方が危ない。これは基本どこでもそうだろうな。ただ、そうなるほど他者への寛容度は下がる気はする。治安が悪い下町ほど人情があるみたいな話は月曜から夜更かしなどでよく聞く。

 

ソマリア社会では殺人が起きても賠償が効くが、室町は効かず血で償わなければならない。室町は命は物と変えられないイメージがあったらしい。命が安いのか高いのかよくわからない話だ。

 

ソマリア社会。とにかくゲストはもてなすし、それを面子にしている。なのでゲスト側もこの時はたかれるだけたかる。これは自分がゲストを迎える時にまた返すからOKという考えだそうだ。なので、敵対勢力はゲストを誘拐して相手の面子をつぶす事をよくやる。なので、外国人がよく狙われるのだと。理屈はわかるが面倒極まりない話だ。こういうのが社会的評価になるからこだわるのか。

 

帰属意識。ソマリは氏族にあるが、室町の場合は地縁や主従関係になる。遊牧社会と農耕社会の違いって感じなのか。

 

日本刀は戦場ではあまり役に立たないというのは最近の歴史マニアの中では常識になっているが、それは拳銃でもいえる事である。ただ、ソマリアでは明らかに拳銃より自動小銃の方が戦闘に役に立つにも関わらず、拳銃の方が値段が高く社会的価値も高くシンボリックな存在になっている。その辺も日本刀と似たような感じになっている。拳銃も日本刀も名誉の問題が絡んでくるので、取り上げるのがかなり難しくなってくる。人間やはり象徴的な物が欲しくなる事がよくわかる。

 

江戸時代前期の傾奇者とソマリア民兵は似た存在らしい。どちらもワイルドを売りにしている。

傾奇者。愚連隊みたいな連中でとにかく戦国時代の武士に憧れていて、鞘に「生きすぎたりや二十五」とか書いて生き急ぐ傾向あり。他に戦国時代の人間が犬を食っていたので犬で試し斬りして食ったりしている。馬鹿じゃなかろうか。

まぁ、そんな彼らも綱吉の生類憐みの令で犬を食えなくなるので、まぁ面白い話ですね。今まで愚策の代表例みたいな話だったけど、最近では戦国時代の暴力の気風をやめるためのものと解釈されているから真実というのはとにかくわからん。

とにかく、室町もソマリア現代日本人から見たら野蛮極まりない世界だという事だけはよくわかった。 

 

第二章 未来に向かってバックせよ!

日本の中世。秩序が一度吹っ飛んでそこからまた秩序を組み立てていく社会。以前は中華文明にひたすらなろうとしたけど、辺境ゆえになれず諦めて独自路線に行った感じらしい。結果論だがそれである意味正解だったかもしれない。

そもそも鎌倉も室町もあまり統制のとれていない社会だったのは対外的な圧力の無いせいと書かれているが本当なのだろうか。元寇は限定的なものとも書かれているし。

 

日本という国は中華文明のおかげで東南アジアよりも文書がよく残っているそうな。しかし、最近はそうでもないのが悲しい話だ。

 

室町もソマリアも神が審判を下す。室町は湯起請・鉄火起請を行う。アフリカには呪術師がいてサッカーの試合でも相手を呪ったりする。アフリカにも似たような起請がある。ソマリアも室町も問題解決というより村社会のガス抜き的な役割がでかいらしい。まぁ審判が気に食わないので別の神や坊さんに審判してもらって争う場合もあったらしい。

しかし、室町の場合は時代が下るごとにしなくなる。江戸時代にはほぼ卒業。やはり人間のできる事が多くなった影響で神様に判断して貰う必要がなくなったため。

 

 戦国時代くらいまで「サキ」は過去のこと、「アト」は未来のこととなっていたが、16世紀くらいになると「サキ」は未来のこと、「アト」は過去のことというニュアンスが含まれるようになった。これも16世紀くらいから未来は制御可能であると人々が認識できるようになったからではという話をしていた。文明の進歩を感じる。

 

日本仏教。アミニズム的解釈されている。草木国土悉皆成仏とか。ほっときゃ雑草の生い茂る日本だからこその解釈なのか。

 

寺は俗世の法律が通らない。ようするにアジール。タイではそれが今も生きている。なので、犯罪の温床にもなってたりする。韓国では教会がそんな感じ。犯罪をしているかどうかは知らん。現代日本だと学校とか相撲協会みたいな風通しの悪い場所がそんな感じに近いような。ただ、日本の場合、寺が治外法権じゃなくなったのは江戸時代から。アジアでも結構異例らしい。

 

日本の村社会。応仁の乱の後の地縁をもとに出来たセーフティネット。高度経済成長期にやっと壊れ始める。しかし、今も今で社会が流動化しまくってるから人心はひたすら不安で消費で紛らわせるしかないってのが悲しいな。

 

第三章 伊達政宗のイタい恋

室町時代は古米が高い。それは今の東南アジアでも同じ。古米の方が膨れるから高いのではという説があったが、東南アジアは米の違いで古い方が美味いというのがあるらしい。そもそも東南アジアあたりは湯がいて食べるからぱさぱさしている方が好まれる。まぁ、味覚の嗜好でさえこうも変わるのだから面白い話だ。

 

室町時代は庶民はよく雑炊を食べていた。鍋がひとつで足りるし、雑穀を足して食べていたらしい。俺もこれからそうしようか。

江戸時代になると、石高制で米が商品作物化したので、室町時代より米が食えなくなった。東北なんかは雑穀の代わりに江戸で消費される醤油や味噌をつくるために大豆を作っていて雑穀をあまり作れなかったらしい。なので、ただでさえ米が作りにくいのに雑穀でさえあまり作れないので、よく飢饉が起きたという事。ずんだ餅は豆ばかり作っていたころの名残。

ここではプランテーション的な単一なものはリスクがあるという話だったが、自分はアイルランドで起きたジャガイモ飢饉を連想してしまった。しかし、東北というのはやたら搾取ばかりされているイメージしかないのは何故なのか。

 

室町時代貨幣経済だったけど、江戸時代には米経済(米の石高制)に戻ってしまった。

室町くらいは中国の銭を使っていたが、中国では銀を使うようになってから日本に銭が入らなくなりまた入ってきても鐚銭といった粗悪なものしか入ってこなくなった。それで経済が不安定になってきたので、信長くらいの頃に米経済に移っていってしまった。

 江戸時代になっても基本は米。少額取引は銭。高額取引は関東で金、関西で銀みたいな感じになった。

ソマリアでも高額取引はドルを使い、少額はソマリアシリング(中央銀行中央政府もないのに機能しているお金)を使っている。

そもそも国が金を発行することにアイディンティティを持つこと自体最近のものらしい。まぁお金なんてみんなが価値があると思えばみんな使ってしまうのだ。

 

戦国時代はよく髭を生やしていたけど、江戸時代の元禄くらいからあまり生やさなくなり、同時に同性愛がアングラなものになっていった。戦いの時代に男色が流行り、平和になると廃れるらしい。そうなると最近の情勢はとにかく不安定だし、同性愛の地位も上がっているからこれから男色が流行るのだろうか。どうでもいいが、洋の東西問わず少年愛があるのはみんな戦っていたからなのか。自分は理屈では分かっても感覚では全く理解できない。

伊達政宗は好きな小姓に浮気していない言い訳の手紙を書いてそれが今も残っている。「近いの言葉を腕に彫っていいけど、風呂に入るときに人に見られて笑われるのがいやだからできない」という情けないやつが。

 

戦国時代は身分の上も下もホモ祭りだったらしい。

天狗草紙という奈良の坊さんが浄土宗・禅宗時宗を批判するために書いた絵巻にはレズビアンっぽい尼カップルがいる。

結局、あれですか「男の人は男の人同士で、女の子は女の子同士で恋愛すべきだと思うの」が真理ですか。そうですか。

 

第四章 独裁者は平和がお好き

 歴史学会では新しい古文書は発見されたとしても見つけた人は評価されない。それより既存の歴史資料を読みかえて、新しい歴史像を作り上げる方が評価される。門外漢が聞くと歴史学は本当の真実を追求するものではないのかと思えてくるがそれでいいのか?

中世は史料の量が一人の学者が研究するのに丁度良い。古代は少なすぎるし、近代は多すぎる。信長が延暦寺を焼いてくれたおかげだそうだ。そういうのもあってか新しい歴史解釈の切り口は中世から始まることが多い。

史料が多くて困るという話は近代食文化研究会の「お好み焼きの物語」でも取り上げられていて、この時はじめて歴史研究は史料が多ければ良いというものではないというのを知ったのと、かつてあったものから今こうなった理由を探る事の難しさを知ったな。

 室町時代。とにかくぐだぐだぐずぐずしていて無秩序な感じだったそうな。インドかシリアみたいな話だな。という事はかつての中世を見たかったらそういうところに行くしかないという事か。行ってみたくはあるが行きたくない感じもする。

 

タイの農民は定住しない。家族でも親戚でもよく家を出て行ってしまう。友人関係も長く続かない。研究者は「水の文化」とも呼ぶ。一応、末子相続はある。基本的に土地が豊かなので、支配者が気に入らなかったら逃げて別のところで田んぼを作って生活してしまう。日本人が聞いたら凄い羨みそうな文化だな。

 

ミャンマー寺子屋があるので昔から識字率が高い。なのでミャンマーは発達する可能性がすごい高い。らしい。でもまぁあまり元々国としては強い場所ではなかったよなぁ。

 

独裁者は統治したいから平和が好き。それが麻薬の製造と販売をしているマフィアでも地元民には麻薬はやるなと言っていたりするのでまぁそうなのだろう。

 

国によらず妖怪というのは農村などのより妖怪が身近?な場所ほど姿がない。怪異現象とか何か不思議なものという存在で捉えている。町にいくほど妖怪の姿がはっきりしてくる。まぁホラーでも正体がわからないほど怖いもんね。わかりやすく実体化されるほど恐怖度が下がるから当然な話だね。

 

第五章 異端の二人にできること

歴史学は読んだ史料の量によって学問のレベルが上がるので、数学のような若き天才というのは存在しない。割とみんな遅咲き。なんとういか経験値のものを言う世界だね。年功序列な傾向があったりするのかしら。

歴史に限らず、学問を目指すのはそろばんを弾くような賢さがあると続けられないので、とにかく狂うくらいに好きでないと無理。

 

民俗学なので農村の聞き取り調査をする際に、いきなり手帳を出すと相手がかしこまってしまうので、最初は長いくらいの世間話からはじまり、その後に要所要所で聞きたい事を聞いて最後にもう一度念押しの確認をする。これが取材のコツらしい。

コンゴの農村などの辺境の地に取材に行くと、快く取材に答えてくれたりする人は村の中でも変わり者・はぐれ者だったりするので、この人に許可をとってもトラブルの元だったりしてあまり意味がなくソース元としても良くない。

 

コンゴの農村も対馬の村も多数決みたいな事はしない。ある種の暴力だから。延々と話しあって根回しして共同の認識となるまでやる。白黒つけない。狭い世界で生きていくための知恵。日本はでかい狭い世界という事なのか。でかいガラパゴスだなぁ。

 

深海生物学者の高井研氏は一流の研究者はストーリを作るのがうまい、ストーリーテラーだと言っている。中々誤解されそうな言葉だが、要するに世界観を提示するのが上手い。ある種の解釈の仕方が上手いという事なのだろうが、中々危険な言葉だと思う。しかし、人間というのは物語がないと理解が中々進まないというからある意味必要な事なのかもしれない。

 

シリアスな問題はそのままだとみんな辛くて見ないから、笑いを交えて伝えないと中々広まらない。確かにそうだし、そういう辛い事しかないような世界でも何かしら面白みを見つける事は大事だと思う。ひたすらしんどい事しか書いていないペリリュー・沖縄戦記でも著者がなんとか楽しい事を見つけようと専念していたのを思い出した。

ペリリュー・沖縄戦記 (講談社学術文庫)
 

 

第六章 むしろ特殊な現代日本

中世人。現代日本人と違って経済苦や労働苦よりも抗議の意味で自殺することが多かったらしい。死んでリセットしたりあの世から祟るというのは海外にはあまりない。海外はあの世とこの世は日本以上に断絶した世界という感覚なのだろうか。

 

タイ人。日本人みたいに表はニコニコしているけど裏でぐちぐち文句を言ったりと嫌なところがある。

日本のムラ社会が風通しの悪い嫌な感じなのは生活の共同体と生産の共同体が一緒だったからではという話。誰かがしくじったらみんなが責任をとらなくてはいけないみたいな話か。そうなると農奴の歴史が長かったロシアなんかもそんな傾向があるのだろうか。ミャンマーなんかは個人単位で税をとったりするから同調圧力は薄い。

今の日本で最後に残された村社会は国だけではないか。確かにそうだと思う。だが、最近のコロナ禍の影響で俺たちに残されたものは国しかないみたいな感じになるのかもしれない。

 

アフリカで日本の中古車が多いのは、日本だけ中古になると値段がずっと安くなるから仕入れがやりやすい。それに通じるのかどうかはわからないが、古代で箸は割りばし的に使い捨てしていたのではと言われている(スサノオノミコトが出雲の山中の川で箸が流れてきたのを見つけて人が近くに住んでいると判断したり、おせちといったハレの料理は割りばしで食ったりと)とにかく日本人は物に魂が宿るから受け継いだり捨てたりしていたらしい。単純に貧乏だからこんな感じになったとも言えないかもしれない。気候のせいで物と人の境目が海外より曖昧な感じになるからなのか。

 

中世は公権力が公共の場に及ばないので、死体が転がっていても誰も片付けなかったりする。今でもそれに近い事はある。パブリック(公共)はなくてオフィシャル(公式)しかない。「公」はオフィシャルのニュアンスが強い。

戦国時代からようやくパブリックなものが出来てくる。

日本人の「お上」に対する依存度は海外より高い。まぁそれはネットでもよく言われているし、それが非常時の治安の良さとも関係してそう。

 

海外ではNGOは政府よりではないという事でフェアなものという認識だが、日本だと非政府という事で信用がなくNPOでないと中々活動出来ない。これも無意識レベルで政府をかなり信用している事からきているのだろうな。いつからこうなっているんだろう。理由もよくわからない。

 

中世社会やソマリア社会の話をすると、現代日本に産まれてよかったという事を言う人がいるが、それは思考停止で相対的にもの事をみていない。言いたい事は分かるが、正直言って、今は歴史的に見れば圧倒的に衣食住がしっかりしているので、中々相対的に見るのは難しい気はする。ただ、中世やソマリアは世界が狭いから割と簡単に幸せになれそうではある。今は欲望の天井がなくそれでみんな苦しんでいる。

 

仮に日本が将来、政府がダメになったら中学を氏とした氏族社会が出現するのでは。311の時も地元の元中学番長の許可がないと記者が取材できなかったらしい。実際に80年代くらいのヤンキー社会はある学校の奴らに殴られたらその学校の誰かを殴りにいくなどの中世的なものが多い。

ただでさえコミュ障のオタクは肩身がせまいのに中世化したらますます生きていけなくなるな。

 

室町時代の能は拍手はない。だらだら始まってだらだら終わっていた。アフリカやミャンマーなんかの国もそれに近い。ただ西洋的なものが入るとそうではなくなる。拍手は西洋の文化。

 

映画であれ演劇であれ、みんな喋ったり物食ったり叫んだりと騒がしかったが、最近になってマナーを言われるようになってお上品になった。

 

一通り読んで思ったが、今いるもの感じているものがいつまでもあるわけではないし、本当に昔からあったわけでもないという事を実感させてくれる本だった。